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武将ミニのぼり「柴田勝家」
■ポールサイズH36.5cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H27cmxW6cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:柴田 勝家は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、織田家の重鎮であった。畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の内として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣前波吉継を越前の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁が内乱に一向一揆を誘って前波を殺すが、一揆勢は富田をも殺し越前は一揆持ちの国となっていた。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を平定。勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。この際、前田利家、佐々成政、不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀の平定を任され北陸方面軍総司令官となった。本能寺の変後、織田氏の後継者問題では信長の三男・織田信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内や丹波、山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡、長浜城(現在の長浜市)を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった(清洲会議)。その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗するが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した。享年62。
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