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武将ミニのぼり「後藤基次」(総白)
■ポールサイズH36.5cmx横棒長さ12.5cm
■旗本体サイズ約H27cmxW6cm ■旗素材:テトロン地 ■ポール:樹脂製 ■ポールはお客様組立商品 ■シルク捺染仕上 ■実際の商品は多少色が異なる場合がございます。 ※屋外用のぼり製作と同じ捺染法ですので、濡れても平気。 屋外でもお使いいただけます。 ※シルク印刷仕上ですので、ウラもバッチリ透けてます。 ※ポールなしの旗だけのご注文もOK!オプションでお選び下さい。 ◎武将メモ:後藤 基次は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田孝高(如水)・豊臣秀頼の家臣。通称は後藤又兵衛として有名。幼少の頃、父を亡くしたことから、父の友人であった黒田孝高(如水)に引き取られた。如水に家臣として仕え、数多くの軍功を挙げた。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵や慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなどに従軍。しかし如水の子・黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔した。そして又兵衛の智勇を惜しんで全国の大名(細川忠興・福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康など)から召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政に仕官を邪魔され、家族とともに大坂で長い浪人生活を余儀なくされた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、徳川家康から法外な恩賞を条件に誘われたが、又兵衛は感激するもこれを拒絶して大坂城に入る。元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣では、大和路方面・国分での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて出陣し、寡兵ながらも奮戦した。しかし伊達政宗軍との乱戦の中、真田信繁軍が霧の発生により行軍に手間取っている間に、片倉重長率いる鉄砲隊に銃撃された。腰を撃たれ歩行不能となった為、又兵衛は部下に介錯を命じて自刃したという。
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